前頭葉に愛を

なかつ(@nktu_pdu)のブログ

だから私は書くというわけです

まだまだ自分を未熟と感じているが、一方で「年取ったんだなぁ。」と思うことが時々増えてきた*1

 

体力面が10代・20代と同じようにならないのは承知している。ひえ~と思うのは、精神面でも「加齢」を感じることが増えてきたことである。
例えば、SNSで流れてくる悩みや不安を見たとき、それらに共感しつつも、「それはもう10年前に通り過ぎた段階だなぁ」と感じたり、「その悩みを解決するにはあの小説を読むといいよ…」と感じたり。
しかし当人は今、リアルタイムで悩んでいるのだから、その悩みを通り過ぎてしまった私のアドバイスは何にもならず(当事者ではなく、高みからの見物人にしか見えないだろう)、結局のところ、私は理解してくれない年長者でしかないのだろう*2

 

人生の流れには逆らえない。変わらない人格のコアがあったとしても、周囲の環境も、自分がしなければならないことも変わっていく。ライフステージという言葉があるが、その通り、ステージが変わってしまうのだろう。今、私が立っているステージはどこか。観客は誰で、どういう規模なのか。「私」を見ているもの(見ているのは、人間だけに限らない)は、時の流れとともに変わる。昔は、親や友達のみがステージをチラ見する程度だったが、サラリーマンになった今は、職場の同僚や仕事相手なども、私を見ているに違いない。インターネットが発達して、ディスプレイの向こうから、一度二進数に分解された私のテキストを見るものもいるだろう(このテキストを読んでくれている人もそうだ。どうもありがとう)。

同じものが好きだったり、同じような境遇を生きてきたり、何かしら共通点があれば、コミュニケーションは取れるし、友人にもなれる。私は年齢に差があっても友人になれるという確信があるが、親しさのレベルが上がって、「人生」に関与する悩みや関係を吐露することになったとき、年齢あるいは置かれている環境の差というのが、壁になるんじゃないか、と思う。
これを思ったとき、とても悲しい気持ちになったけれど、それを前提にすれば、けっこうなすれ違いが解消されるかもしれない、とも感じた。

 

ただ、「創作」を通じてであれば、年齢や環境の差を乗り越えてのコミュニケーションができるのではないか、と私は強く思う。私あるいは誰かの作品を見て/読んで解釈し、考えたことをまた何かに表す。そのとき、そこに生じているのはコミュニケーションだ。だから私は何かを書き続けたい。普通の友人として付き合うにおいては発生してしまう壁を超えて、もっと仲良くなるために*3

 

そんなことを(仕事をしながら)考えたあとで、QUEENのライブに行った。東京ドーム公演。
一緒に行ったのは母の友人で、私とは世代が違う。観客も本当に老若男女いて、外国の方もたくさんいて、多種多様だった。だが、みんなが一様に興奮して、楽しんでいた。QUEENのコンサートを楽しんでいるという一点において、私たちは分かり合っていた。

いやはや、すごいですね。本当にレジェンドだ。素晴らしいアーティストは、いろんな壁を超えさせてくれる。アダム・ランバートの歌声も最高。セクシーで、とってもかっこよかった。

「創作」によって生まれた「作品」は、とても素晴らしいものですね。私もそういう作品をつくりたーい!と中二っぽい願望を残して終わります。

 

グッズを買いました

 

*1:大人とは成熟した人間の姿であるという考えがすでに愚かな気がするが。まあ、精神的に若い気持ちでいたっていうことにしておいてください。

*2:しかし、最近思うのだが、人生の悩みって大体、いわゆる「(純)文学」にカテゴリされる小説に書かれているな? 人生に悩む人は(純)文学を読むといい。太宰治とか村田沙耶香とか……。あと、「中二病」ってバカにされがちだが、案外大事な段階だったかもしれないな、と思った。今、「あ~中二病のときと同じカテゴリのもやもやな気がする。あのときは若かったなぁ~もっと建設的に悩むか……」と冷静になれることも稀にある。十分に大人と呼ばれる年齢になってから中二病っぽい思考に至るのは、けっこうキツい気がするのだ。若人よ、中二病であれ!

*3:というわけで(?)、作品には鑑賞者が作品を解釈することも含まれる、鑑賞者まで込みで作品なのだ、という考えのマルセル・デュシャンが私は大好きだ。デュシャンは作品を通じて私たちとコミュニケーションをとっている。時代をこえて。素晴らしいことだ。かなり無理矢理なコメントだが、昨日でマルセル・デュシャンに関するオンライン講義が終わり、大変満足したのでねじ込んでおきます。